30時間サンプル

サンプル1

 雪は人の言葉を喋れない、ベガのようには。個体差なんだろう。
 最後に聞いた雪の言葉は忘れられない。
 パーティーから外れた当初、オレも雪もダメージが大きかった。元は居住区だったらしい一室を見付けて、そこに篭ってしばらく息を潜めていた。そんな頃。
 次第にメタモルフォーゼし、もう人とは呼べない姿になっていた雪が必死に、喉から掠れた声を振り絞って言った。
『1号……頼むっ……にいさ……』
 その後、雪の発する声は言葉になっていなかった。鳴き声に変わっていった。
 自分だって大変なのに、雪は本当にシキのことしか頭に無いようだ。
 頼むと言われて、それに応える義理はあまり感じなかったが約束したことだ。雪といる限りは守ろうと思う。

 ◇

サンプル2

「雪、前脚を着こうとしたな」
「は? あ……ああ、わりぃ。……ん? 前脚ってなんだよ、腕だ、腕!」
「そうだな、もう戻ったんだもんな」
「情けねぇ、まだ感覚を取り戻せてねぇなんて……」
「馬の時の癖、よく出るのか?」
「いや……戻ってからはそんなには……」
 はたと気付く、1号に支えられたままだ。もう自分の足で立っているから、腕を添えられている程度だが。
 そう気付くと同時に居心地の良さを感じてしまい、それを追う様に気まずい気持ちが流れた。
「離せ」
 俺は1号の体を押しやり、横へ退いた。
 他人の体温が離れると、肌に当たる風はいっそう涼しさを増して感じられた。
 名残惜しい気持ちがして、そんな風に思ってしまうことがいやだった。
 脳の中で記憶が次々に閃き出し、その場で立ち尽くしてしまった。1号が訝しそうな顔で俺を見ている。

 ◇

サンプル3

 長きに渡る戦いに勝利した。極度の疲労と解けないままの緊張が残る中、一時はその事実に高揚した。常界を守ることが出来た、生き残ることが出来た。そして戦いの日々からやっと解放される。そんな風に歓喜した。
 その感情が続けばどんなに良かったか。
 喜びは一瞬で通り過ぎ、代わりに別のものがオレの胸を埋め尽くした。
 つい先程まで、ここのところしばらくの間は意識することの無かった感情。
 ジスロフへの激しい憎悪が沸き上がり、瞬く間に胸の内が黒く赤くドロドロとした色に染め上げられた。それはまさに衝動で、今にも突き動かされそうになった。
 オレは感情を制御することが出来なかった。沸き上がるその瞬間も、埋め尽くされた後も、それを退けることがどうしても出来なかった。
 動揺した。自らの感情を全く制御出来ないことに加えて、今になって何故、と。
 一方で、自らの心の有り様に酔いそうなほどの興奮を覚える自分もいた。恨み、憎しみ、それによる害意。心の奔流に溺れそうでとても苦しいのに、かつての思いを果たすことを――奴の心臓に剣を突き立てる自分の姿を――想像すると思いの外、胸が熱く滾った。

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